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  賣茶翁(ばいさおう)(1592〜1673)のこと

 隠元禅師(黄檗宗萬福寺開祖)が日本に来た承応3年西暦1654年から21年後の延宝31675年、肥前の国(現佐賀県)は蓮池の芝山氏に3番目の男子が生まれた。名を菊泉という。この菊泉、長男でないがゆえに、柴山の家では所謂はみ出し者であるが、天運のしからしめるところか、その頃蓮池に興された黄檗宗龍津寺の小僧となった。僧名月海。この時龍津寺の山主は化霖道龍。聡明であった月海はこの化霖禅師に慈しみ育てられたのではあるが、年少にして出家の道を歩まされることは、聡明であるが故に計り知れぬ運命の綾を感得したことであろう。けれども、生来の真面目で人を思いやる心は、彼をして黙々たる黄檗宗門の修行に従わせた。これで話が尽きるのであれば、もしかすると、当時はどこにでもある風光であったかもしれぬ。しかし天運ままならぬことは世の定め、突如として月海に病苦が来る。21歳の頃、疫痢によって生死をさまようことになるのだ。これにより何より大事なことと心得もし確信してもいた修行の根幹たる不動心が揺らいだのである。この時、月海はもう一つの衝撃を受ける。それはこの揺らぐ心に応え得る人が、師である化霖ではなかったということ。さらに言えば、宗派そのものへの疑義を覚えたことである。なぜそうと言えるのか。年譜のここからの記録が2〜3年分空白となり、ただ諸国を行脚したとのみ書く。実は奥州(仙台)まで行脚したのであるが、たとえば、疑義が師によって明らかにされたのならば、他国へ行くこと許さずという当時の掟を超え、しかも病も癒えぬままに彷徨う必要はあるまい。<我が師によってさえも明らかにされぬ法であれば、師に法を伝えた先師の教えの正当性について、否、黄檗宗の根本理念について疑義を晴らさねばならぬ。死はそこまで来た。待つことはできぬ。これだけは、自ら解決する以外、師も親族も旧友も当てにならぬではないか>という覚醒。幸いと言うべきか、帰る所とて無い身であれば求道の心そのままに必死で旅立てたのであろう。けれども、ここまでの処でも、いつの時代であれ感性鋭い若者の生き方としてはありえたことかもしれない。この小文で語りたいことはそのようなことではない。

時は過ぎ、月海が生き生きと年譜に消息を現わすのは56~7歳の頃、肥前の国を出でて浪花に旅発つところからである。この間46歳の時、師化霖の死にっている。つまり、依然として10年間の小僧暮らしで寺を守ってきたことになるが、それが長年連れ添った師への恩義か否かは定かではない。かつて師は寺を譲ろうとしたが受けていないので、これは上記彷徨の頃から心に決めていたのであろう。後継者大潮が帰郷するのが月海56歳の時。そこで心置きなく故郷を離れ自由人として残る生を終えようとしたらしい。誠実への福徳はあるもので、長年龍津寺に務めたことによって鍋島藩から厚い信頼を得、故郷から離れることができたのである。その後暫らくして、京都の人は、還暦に近い月海があちこちで茶を売る姿を見ることになる。人は彼を賣茶翁と呼ぶのである。この賣茶翁、しかし、茶を売ると書いても積極的な商いをしない。その訳を残された詩偈などにより類推すれば<茶を売るのは年寄りや子供であり、最も益の薄い最も卑しい商いであると人が言う。それが私の好むところではあるが、危惧するのは、わたしが茶を売ることによってこの最も少ない益ですら得られない者が出てくることだ>よって彼は茶を売る翁と呼ばれても茶を売ろうとはしないのである。ここで注目すべきは、かつて誰も試みたことのない金銭授受の方法、新しいコミュニケーションの方法である。<茶銭は黄金百鎰より半文銭まではくれ次第 ただ飲みも勝手 ただよりはまけもうさず>とか<達磨さえ おあしでわたる 難波江の 流れを汲める 老いの我が身ぞ>などとユーモアとも狂歌ともつかぬ句でその心を表わしている。これも彷徨の頃から心深く決めていたに違いないが、市井に在って市井から超絶すること、この世から高く飛び上がり悠々と自適すること。僧職を捨て、布施はいらぬ、お恵みもいらぬ、と言う。その後、名を高遊外と改め、人がそう呼ぶのでやむなく高遊外賣茶翁と名乗るが、どうやら彼は余生は信じてはいない。かといって生きてゆくことを投げているのでもない。当然のたれ死ぬつもりではあったろうが<都の山や川が懐かしく、ついついこんなことをしております>と嘯いている。賣茶の生活20年、ついに89歳まで生き、池大雅(画家)や僧大典といった友人に惜しまれつつ、岡崎の地に逝く。「近世畸人伝」(岩波文庫)中の人物であり、徳川の世では清らな風雅の人として親しまれていた。

 

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